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田川簡易裁判所 昭和34年(ろ)324号 判決 1960年1月14日

被告人 吉田正徳

大一〇・一〇・一五生 自動車運転者

主文

被告人は無罪。

理由

(本件公訴事実)

被告人は運転資格を持ち自動車の運転業務に従事しているものであるが、昭和三四年六月一五日午前九時二五分頃小型乗用自動車を運転し、時速四五キロメートル位の速力で田川市西区御幸町後藤寺農業協同組合から西方一五〇メートル位の幅員約八・五メートル位の弓削田国道上にさしかかつたところ、前方四二メートル位の路面左側を同方向に歩行している中藤コユキ(六四才)の後姿を認めたが、かかる場合運転者としては何時右中藤が路面を右側に横断するかも知れないので、同人との接触による事故の発生を未然に防止するためできるだけ路面右側に車をよせ同人との横の間隔をとるは勿論、もし同人が右に出たならば何時でも急停車できるよう減速徐行をして接近すべき業務上の注意義務があるにもかかわらず、これを怠り同人はそのまま路面左側を歩行するものと軽信し路面中央よりやや右側によつただけで時速四五キロメートル位のまま接近した過失により同人の右斜背後一七・五五メートル位にせまり初めて同人が路面右側に向い走り出すのを気付き、あわてて急制動措置を構じたが制動が遅れ、速力があるため間にあわず自己自動車前部バンバー右端附近を同人に接触させて路上にたおし、よつて同人に対し右肩胛関節部、腰部打撲傷、脳震盪症などにより加療四週間位を要する傷害を負わせたものである。

(認定した事実)

一、中藤コユキの司法警察員に対する供述調書

一、司法警察員作成の実況見分書

一、医師佐々木重幸作成の診断書

一、証人中村道太郎、同中藤コユキの尋問調書

一、当裁判所の検証の結果

一、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書

(後記過失についての供述記載部分を除く)

を綜合すると

被告人は自動車運転者であるところ、前示日時、前示自動車を運転して、国鉄後藤寺駅の西方約六〇〇メートルの田川、飯塚を結ぶ国道に架設してある春日橋を飯塚(西方)に向い通過し、この橋から西方約一二〇メートルの速度制限標識の設置点を過ぎて、時速を四五キロメートル位に加速し道路左よりを進んだものである。

右国道は幅員約八・五メートルのアスフアルト舖装道路で、前記春日橋より西方五〇〇メートル位までは直線であり、又同橋より一六〇メートル位までは両側に人家があるが、それより先(西)、本件事故現場附近までは両側が二メートル位低い耕地で、前後左右の見透しは良好であつて自動車の往来が頻繁である。しかし本件発生当時は歩行者はほとんどなく、自動車の交通量も少なかつた。

被告人が前記春日橋より約二五〇米の地点(この附近は田川市西区御幸町である)に達した時、左斜前方約四七メートルの前記国道左端を西方(被告人と同方向)に向い醤油を買つて帰宅している中藤コユキ(当時六四才)の後姿を認めた、そこで被告人は進路をやや右にかえ国道中央を進行し、同人との差が約一七メートルにせまつた際、同人が立ちどまるような態度を取つたかと思うと同時に突然国道右側に向い斜断すべく走り出したので、被告人は同人との衝突を避けるため急制動措置を構じたが速力があるため、約二〇メートル進行した地点において、同人に自動車の前部バンバー右端附近を接触させて路上にたおし、よつて同人に前示のような傷害を負わせたものであることが認められる。

(過失の有無についての判断)

右の結果発生が公訴事実にいうような被告人の過失に基因するものであるか否やを検討するに、およそ被告人に刑法上過失の責任があるとするには、被告人が相当の注意をしたならば結果発生を予見し得たにかかわらずその注意をしなかつた場合でなければならない、しかるに検証の結果及び証人中村道太郎、同中藤コユキの証言によると、本件事故現場附近国道は福岡県公安委員会による速度制限なく、被告人の運転していた乗用車は時速六〇キロメートルまでは加速し得ること。被害者は右国道は自動車の往来が頻繁であることを知つていたが、事故当時、家に一人残していた孫の行動が気にかかり後方を注視せず国道を走つて横断したこと。被告人において、被害者が国道を歩行している時は同人が国道を横断するような態度は見受けられなかつたこと。被告人は前示のとおり被害者の姿を認めてすぐに、同人との間隔を保つため自動車を国道中央に向けたこと。双方がそのまま進行すればこの被告人の措置で被害者を追越すには十分であることが認められ、被告人が注意したならば被害者の前示のような突然の行動を予見し得たと認められる資料はない。

もつとも被告人の司法警察員に対する供述調書中「被告人が被害者を認めた際、被害者が被告人の車に気付いて待つてくれるものと思つて徐行せずに進行を続けて被害者の動静を確認しなかつたのは被告人の落度である」旨、及び検察官に対する供述調書中「その女(被害者の意)の人が右に出てくるかどうかは私が自分できめられることではありませんから、ひよつとして右に出てくればどうかと考えれば危いことは判りますので、その女の人に近付くにつれてその距離に応じて速力を落し調節しながら徐行する方法がとれていたのであります、そうしておればあわてることもなく急停車もできますし、或はその女の人が右によつて行くその背後を私の車を左によせながら通過することもできていて衝突せずにすんだと思います」旨の各供述記載がある。しかしこの供述記載はいずれも本件の結果から見た推測で、或は尋問者の誘導による結果ではないかとも思考されるが、このことはさておき、自動車を運転するものは常に前方左右を注意し事故の発生を未然に防止するため万全の措置をとり得る態勢をもつて、これに従事しなければならない義務があることは勿論であるが、自動車が高速度交通機関として普及発達した現在、進路の道端に歩行者があるからといつて、その度毎に、相手方(理非弁別の能力のない幼者などであれば格別)がひよつとして進路に出てくるかも知れないという万一を予想して、徐行しなければならないとすれば、自動車としての機能は甚だしく阻害されることになる、従つて運転者としては相手方が自ら自動車と衝突するような危険を避けるため適切な行動をとるであろうと信頼して運転すれば足るものであり、公訴事実にいうような相手方の不測の行動を予見し、これによる事故発生を未然に防止すべき義務までも課せられているとは解せられない、であるから右の供述記載をもつて、本件において被告人に過失ありとする資料とすることはできない。

なお本件事故の原因として、被告人の運転していた前示自動車の制動機などに故障があり、これを知りながら被告人があえて運転していたとか、制限速度を越えて運転していたとか、又被告人の急停車措置が適切でなかつたとか、その他結果発生の予見が可能であるにかかわらず被告人に注意義務違背があつたと認め得られる資料はないので、本件の結果発生は被告人の過失に基因するものとは認められない。

(結び)

以上説示のとおり前示中藤コユキが被告人の運転する自動車と衝突負傷した事故が、被告人の業務上過失により発生したものであると認むべき証拠がないので、刑事訴訟法第三三六条に則り被告人に対し無罪の言渡しをする。

(裁判官 吉松卯博)

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